福澤諭吉は、中津の若い人びとに大きな期待を寄せていました。洋学の必要性を感じ、のちの慶應義塾の基礎を固めようと考えたときも、真っ先にその担い手を求めたのは、郷里の中津でした。このときの入門者6名(小幡篤次郎・甚三郎兄弟、小幡貞次郎、服部浅之助、浜野定四郎、三津五郎)をはじめ、多くの中津出身者が福澤のもとで学び、実業界、政界、教育界などで活躍しました。朝吹英二や中上川彦次郎のように主に中央で活躍した人物もあり、また島津万次郎や山口半七のように中津にあって様々な局面で郷里に尽くした人物もいます。

浜野定四郎 (はまのさだしろう)
(1845-1909)
教育者、慶應義塾塾長。中津藩士の子に生まれ、元治元(1864)年福澤の呼びかけに応じ、小幡篤次郎ら5名とともに江戸に出て入門。読書家で博学、理科学を得意とした。福澤は折に触れ諸事を浜野に尋ね、また会計業務を委ねた。明治5(1872)年から中津市学校長。明治12年から塾長となり20年まで務めた。共訳書に『新砲操練』(1870)など。

三輪光五郎(みわみつごろう)
(1848-1927)
教育者、実業家。中津藩士。元治元(1864)年に小幡篤次郎・甚三郎兄弟や浜野定四郎らとともに入門。慶應義塾で教鞭を執ったが、明治5(1872)年から海軍兵学寮で英学を教え、10年から24年まで東京大学医学部事務局に務めた。明治26年から日本麦酒醸造会社(エビスビール)に入り、35年から同社支配人を務めた。

増田宋太郎(ますだそうたろう)
(1849-1877)
福澤諭吉の再従弟。渡辺重石丸の道生館で国語を学び、尊王攘夷思想を抱くようになった。『福翁自伝』によれば、明治3(1870)年に帰省した福澤の暗殺を企てたが果たせず、その後意見を変え、上京して福澤家に寄宿しながら慶應義塾で学んだ。のち中津の地方紙『田舎新聞』の編集長となり自由民権を主張したが、明治10年に西南戦争が起こると旧中津藩士族たちを率いて参戦、西郷軍に合流して城山で戦死した。本館の東隣が生家跡で、記念碑が建立されている。

朝吹英二(あさぶきえいじ)
(1849-1918)
実業家。下毛郡下郷村宮園の代々庄屋の家に生まれる。日田の咸宜園に学び、明治2(1869)年に大阪で福澤暗殺を企てたという。その後考えを変え、福澤家の玄関番をしながら翌年12月慶應義塾に入学。慶應義塾出版局主任、丸善薬店課長、三菱会社支配人などを務め、25年鐘淵紡績会社専務取締役になると立て直しに尽力。その後三井財閥の基礎を固めるなど実業界で活躍した。妻は福澤の姪で、中上川彦次郎の妹。子孫に文学者が多く、平成23(2011)年芥川賞を受賞した真理子は玄孫。

中上川彦次郎(なかみがわひこじろう)
(1854-1901)
実業家。福澤諭吉の甥。大阪で学んだのち明治2(1869)年5月慶應義塾へ入学。明治4年末からは中津市学校、6年頃には宇和島英学校で教鞭を執る。明治7年末から10年末まで福澤の支援でイギリスに留学、井上馨と知り合う。帰国後は『民間雑誌』の編集長や『時事新報』の初代社長を務め、経営に才能を発揮した。その後山陽鉄道社長や三井銀行の理事を務め辣腕をふるい、「三井中興の祖」とも呼ばれるが、福澤が亡くなって間もなく病没。

山口半七(やまぐちはんしち)
(1853-1932)
実業家、政治家。父広江は中津藩政。特に財政面で活躍した人物。母伝は福澤諭吉の従妹に当たる。明治3(1870)年福澤に連れられて上京し、12月慶應義塾入学、慶應義塾出版局で働くが、のち中津に戻り明治11年日田・中津間の道路開通に尽力、また製糸業や紡績業、金融機関の振興にも力を注ぐ。明治15年県会議員となり、県議会議長や短期であったが衆議院議員も務めた。

島津復生(しまづふくせい)
(1806-1878)
中津藩の重臣で、福澤が非常に信頼した人物。『福翁自伝』の中で「頗る事の能く分かる、云わば卓識の君子」と評している。若くして藩政に参画し、剛直朴実な人柄と才覚で藩政改革を担い、最後の藩主奥平昌邁の補佐役も務めた。日田・中津間の道路建設に秩禄公債証書の全額を寄付し、第七十八国立銀行の設立にも尽力した。息子の万次郎(1856-1898)と弟三郎(1859-1930)も慶應義塾で学び、万次郎は中津市学校の世話人を務めた。


奥平昌邁(おくだいらまさゆき)
(1855-1884)
中津藩最後の藩主。賢候といわれた宇和島藩主伊達宗城の4男として生まれ、文久3(1863)年奥平昌服の養子となる。明治4(1871)年慶應義塾に入学し、同年末アメリカへ留学、ニューヨーク州ブルックリンにあるポリテクニック・インスティチュートで学んだ。病を得て帰国、明治13年東京府会議員となり、翌年東京府芝区長に就任、15年辞任し17年に病没。旧藩主として中津の発展に尽力し、日田・中津間の道路建設に出資、明治16年に起こった中津士族間の紛擾の調停も行っている。

和田豊治(わだとよじ)
(1861-1924)
実業家。中津藩士の家に生まれ、中津市学校で学んだのち明治15(1882)年慶應義塾入学。旧中津藩主たちの出資による育英機関である中津開運社から学費の援助を受けた。明治17年の卒業後渡米、甲斐商店サンフランシスコ支店などで働く。帰国して日本郵船入社、明治26年鐘淵紡績の東京本店支配人となるが、武藤山治との不和で退社。明治34年富士紡績専務取締役となり、のち富士瓦斯紡績株式会社社長。多くの企業の役員を務め、日本工業倶楽部の創立にも尽力した。

鈴木濶_(すずきかんうん)
(1832-1909)
中津藩用人、地方官僚。藩政時代は力兵衛と称し、のち濶_、閑雲。中津藩において要職を務め、明治以降も藩のために尽力した。明治5(1872)年の藩札処分にあたっては、明治政府に対し、公定率ではなく中津藩の実情に見合った率での交換を交渉し成功している。小倉県権大参事や大分県ニ等属を務め、下毛郡役所が開設されると初代郡長になった。旧中津藩士たちの互助組織である天保義社で社長を務めるなど、福澤も「徳望ある士」と評して旧中津藩士たちのまとめ役として期待していた。

甲斐織衛(かいおりえ)
(1850-1922)
教育者、実業家。中津藩士の子として江戸藩邸に生まれ、戊辰戦争で新政府軍に従ったのち、明治元(1868)年11月慶應義塾に入学。大分の洋学校長や中津市学校長、神戸商業講習所長を務めた。その後実業界に転じて、明治18年には輸出入業の甲斐商店を興し日米貿易で成功、サンフランシスコ、セントルイス、サンディエゴなどに店舗を構えた。