独立自尊の碑
中津公園地にある「独立自尊」と刻んだ碑。明治37年(1904)7月8日、大分県共立教育会が建立したものです。当初は福澤諭吉の銅像を建設する計画でしたが、福澤は生前、銅像建立を好まなかったことから、福澤の精神を表すこの語を刻む石碑とされました。当時は公園地中央にありましたが、昭和7年(1932)10月18日に、現在の位置に移設されました。

中津城
豊臣秀吉より豊前6郡を拝領した黒田孝高(如水)が築城し、その後細川氏、小笠原氏、奥平氏と引き継がれた水城です。現在の天守閣は、昭和39年(1964)に建設されたもので、内部は資料館になっています。また、周囲は城下町の面影を今なおよく伝えています。

増田宋太郎の碑
本館東隣の増田宋太郎生家跡に建つ記念碑。増田宋太郎は福澤諭吉の再従弟(またいとこ)。渡辺重石丸(いかりまる)の道生館で国学を学び、尊王攘夷思想を抱くようになり、福澤に反感を抱いた時期もありましたが、のちに意見を変え、上京し慶應義塾で学びました。中津地方紙『田舎新聞』の社長などを務めましたが、明治10年(1877)に西南戦争に参戦し、戦死しました。

羅漢寺
本耶馬渓町の岩山の中腹に位置する、大化元年(645)開基の古刹。日本三大五百羅漢の一つに数えられ、境内には様々な表情の五百羅漢など3000体以上の石像が安置されています。福澤は、6、7歳ころ一度参詣し、帰路母におぶわれたことを覚えていると書き残しています。

耶馬溪競秀峰
明治27年(1894)に帰郷した福澤は、景勝の地として知られるこの一帯の土地が売りに出ていると聞き、景観が損なわれることを心配、人目を引くことを嫌って少しずつ他人名義で土地を買い上げて保存に尽力しました。これは、日本におけるナショナルトラスト運動のさきがけともいわれ、福澤が終生郷里を心にかけていたことを今日に伝えています。