About Fukuzawa
福澤諭吉を知る
福澤諭吉ってどんな人?
福澤諭吉は、1835(天保5)年に大坂の中津藩蔵屋敷で、13石2人扶持の下級武士福澤百助の次男として生まれました。1歳6ヶ月の時父と死別し、母子6人で中津に帰郷。貧しくとも信念を持った少年時代を過ごし、14、5歳より儒学者白石照山の塾に入りました。1854(安政元)年、19歳の時蘭学を志して長崎に遊学、翌年からは大坂の緒方洪庵の適塾で猛勉強に励みました。
1858(安政5)年には、藩命により江戸の中津藩中屋敷に蘭学塾を開きました。これが慶應義塾のはじまりです。西洋の語学力と知識をたくわえたいと考えた諭吉は、1860(万延元)年「咸臨丸」に乗り込み渡米。以後、ヨーロッパ諸国も歴訪し、社会の制度や考え方などに旺盛な好奇心で見聞を広めました。その後『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論之概略』などを続々と著し、当時の日本人に西洋文明の精神を伝えました。
画像提供:慶應義塾福澤研究センター
略年表
1835(天保5)年 | 大坂の中津藩屋敷に生まれる。 |
1836(天保7)年 | 父百助の死去に伴い母、兄、3人の姉と共に中津に移住。 |
1854(安政元)年 | 蘭学を学ぶため長崎に出る。 |
1855(安政2)年 | 大坂にあった緒方洪庵の適塾へ入門。 |
1858(安政5)年 | 藩命により江戸に出て、中津藩中屋敷で蘭学を教え始める。 |
1860(万延元)年 | 咸臨丸で渡米。帰国後、幕府に出仕する。 |
1862(文久2)年 | 遣欧使節一行に加わり仏、英、プロシャ、露、ポルトガルの各国を訪れる。 |
1867(慶応3)年 | 幕府の軍艦受取委員の随員として再渡米。 |
1868(慶応4)年 | 自らが教えていた塾を慶應義塾と命名する。 |
1869(明治2)年 | 福澤屋諭吉の名で出版業に着手する。以後著作権の確立運動にも従事。 |
1870(明治3)年 | 中津に帰り母を伴って東京に帰る。この時、中津で「中津留別之書」を起草。 |
1871(明治4)年 | 中津市学校の開校に尽力。校長に小幡篤次郎を派遣する。 |
1872(明治5)年 | 『学問のすゝめ』初編出版。 |
1874(明治7)年 | 三田演説会を組織する。翌年三田演説館会館。 |
1880(明治13)年 | 交詢社発会。 |
1881(明治14)年 | 初の朝鮮からの留学生柳定秀・兪吉濬を慶應義塾に受け入れる。 |
1882(明治15)年 | 『時事新報』創刊。 |
1892(明治25)年 | 北里柴三郎の研究を助成するため、伝染病研究所を設立。 |
1894(明治27)年 | 墓参のため、長男と次男を伴って帰郷。耶馬溪の「競秀峰」を買い取る。 |
1898(明治31)年 | 『福翁自伝』脱稿。脳溢血を発症し、リハビリで回復する。 |
1899(明治32)年 | 『女大学評論・新女大学』刊行。 |
1901(明治34)年 | 1月25日脳溢血を発症し、意識が戻らないまま2月3日永眠。 |
福澤諭吉の主な著作
西洋事情
【1866-70年刊・全10冊】
福澤の名を一躍有名にしたヨーロッパやアメリカ滞在中の見聞をまとめた著作。西洋諸国の経済の実情や学校教育、病院から電信機、ガス灯にいたるまであらゆる施設や制度を紹介しています。
この本は、広く日本人の西洋に対する認識を深めさせたばかりでなく、徳川慶喜が「大政奉還」を決意するきっかけになったともいわれ、新政府の 「五箇条の御誓文」「政体書」などにも多大な影響を与えたといいます。
学問のすゝめ
【1872-76年刊・全17編】
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」の書き出しで知られる福澤の代表的著作の一つ。新しい自由な考え方を生み出せない儒教思想を批判し、実証的な学問の重要性を説いています。
当初は福澤が中津に洋学校(中津市学校)を開設するに当たり、中津の若者のために書いたものでしたが、やがて大ベストセラーとなり、17編まで合わせて、340万部が読まれたといわれます。
文明論之概略
【1875年刊・全6冊】
人類の進歩をうながす「文明」を求めていくことの重要性を説く、福澤の代表的著作の一つ。人間の精神を発達させるという観点では、東洋より西洋の文明が優れていることを分析し、同時に当時の日本の独立という課題のために、当面「文明」を手段とすることの必要性も説いています。
西郷隆盛もこの本に影響を受け、薩摩の子弟に読むことを勧めていたといわれています。
福翁自伝
【1899年刊・全1冊】
福澤が今日でも分かり易い平易な語り口で、幕末明治の激動の時代を、活き活きと描いた自伝。口述筆記の原稿に大幅に加筆修正を加えて完成しました。自伝文学の傑作としてフランクリンの自伝などとも並び称され、自らの欠点や失敗なども避けずに詳しく記されています。特に生い立ちから青年時代、幕末の様子が記述の大部分を占め、後半生は簡略に描写されています。
福澤諭吉のゆかりの地
南部小学校(生田門)
場所:中津市三ノ丁1309 MAP
中津市学校の校門として使用されていた門。
南部小学校は、中津藩で代々家老を務めた生田家の邸宅跡地です。この地に1871(明治4)年、福澤のかねてからの提言がみのり中津に洋学校が開校しました。
小幡記念図書館(中津市立図書館)
場所:中津市片端町1366-1 MAP
福澤の片腕として活躍した小幡篤次郎の名を冠した図書館。篤次郎は慶應義塾の塾長を勤めた人物であり、中津においては「中津市学校」の設立に尽力し初代校長となりました。
館内には、小幡の胸像や資料展示コーナーが併設されています。
新中津市学校
場所:中津市1385番地1(殿町) MAP
新中津市学校は、小幡篤次郎の生誕地に建てられています。この地は、篤次郎の遺言をもとにして中津図書館(後の小幡記念図書館)が1909(明治42)年に開館しました。現存する建物は、1938(昭和13)年に建替えられたものです。
現在は、学習交流施設として利用されています。
耶馬溪競秀峰
場所:中津市本耶馬渓町曽木 MAP
景勝の地として知られるこの一帯の土地が売りに出ていると聞き、福澤は景観が損なわれることを心配、人目を引くことを嫌って少しずつ他人名義で土地を買い上げて保存に尽力しました。これは日本におけるナショナルトラスト運動の先駆けともいわれ、福澤が終生郷里を心にかけていたことを今日に伝えています。
羅漢寺
場所:中津市本耶馬渓町跡田1501 MAP
本耶馬渓町の岩山の中腹に位置する、645(大化元)年 開基の古刹。日本三大五百羅漢の一つに数えられ、境内には様々な表情の五百羅漢など3000体以上の石像が安置されています。福澤は、6、7歳ころ一度参詣し、帰路母におぶわれたことを覚えていると書き残しています。